今週はギフトショー/stokkist/DEPT/銀座手仕事直売所。ものつくり~売り手につなぐイベントウィーク。
http://www.giftshow.co.jp/tigs/70tigsinvitation/index.htm
http://www.deptokyo.com/
http://www.forstockists.jp/
http://www.matsuya.com/ginza/topics/100825e_chokubai/index.html
ギフトショーはライフスタイルショーや文具ショーに大手企業が発表を移したとかで、妙に洋服とか健康器具とか鉱物標本とか多くて、また印象が変わった。クラフトフェア、デザイナーズフェアのコーナーしかほんと見てない。
pearちゃん、moomamaさんのゆうりんがまさに凛としていた。初めは「おりんてなんじゃい」と思っていたが、生活の中で鈴を鳴らす、鈴で呼び掛けるって古臭くて現実味がないかと思ってたけど、ネット経由/電話 と 直に会う の間みたいだ、ぐるっと回ってありかも。音がきれい。確かに。譜が読めなくても楽器ができなくても音を楽しむ。見ててもつるっとしていて写真より質感が強い。金属の鏡面、色、ヘマタイトの深みとつや。
stokkistを見に行く、去年は「なんだかアパレル由来の雑貨ってムードはあるけど自分に近くないなあ」と思っていた。なんかね、ブレードランナーでレプリカントが古い写真を集める=自分の由来、歴史を作ろうとする、それに似てる感じの違和感。作り手の念がこもっていて、使い手の念をこめる余地がない、でもその作り手はたかだか若者数人程度なので、どこか今しか見てない浮いた洒脱感の見える素朴さ、慎ましさ。
でもね、それは自分にかつてあったんだよ。古着とか高架下で古い道具を買ったりして、同じだと思う。それが一人でこっそりやっていたつもりだったのが、25年経ったら結構な流れになってしまった。でもその歴史は本当に自分の生活に寄り添うのかはわからない。黒ずみのある白の古びた雰囲気の陶器は絵のように存在感はあるけど、日常の道具として日々食べるものをなんでも受け入れてくれるかはわからない。受け入れてくれて、それがやがて個人のテイストになっていくのかもしれない。
青森の刺子をバッグやクルミボタンにしていた人、私がやろうとしているアプローチに似ている。色合わせを変えて、柄を変えて、使いやすいバッグの縁飾りにアレンジ。そうなんだよ、日本の工芸、それだけですごく今風になるんだ。でも今風になったらブームとしてあっという間に消費される心配はないのか? 伝統の街の作る人に「変える勇気」を与えられるのだから意義はあるし、すでに伝統という物語があるのだからうまく売り手と結び付けばあっという間に受け入れられる。
こんな気分は自分だけかと思っていたら、pちゃんも感じていたって。ううむ霊感や音感の強い人同士みたい、つい見えてしまう、でも自分だけでなくてよかった。
日月館で Yさんと偶然出会う。pちゃんのゆうりん、すごく心に響くものだったみたい、それはプロダクト、グラフィック、サイトから見えてくる静かな言いすぎないスタンス。pちゃんyさんの会話を聞いてると
「こういうことを自分から"癒し"と言ってしまうととたんに胡散臭くなるよね」あーなるほど。そこは受け手にまかせればいいのだ。
「仏具って実はすてきなインテリアグッズの箱、蝋燭立、鈴、フォトフレーム、お香。再分解して家の中の静かな時間のための道具に再構築して、それを作る技術を生かしたい」とpちゃん。ううむ、なるほど。
私は何ができるのか、何をしてるのか。pちゃんもyさんも「のりちゃんは変でいいんだよ、それを自分で変と言わないで本人真面目だからいいんだよ」と言ってくれた。たしかにブックカバーもメガネケースも「ううむ自分で作っておいてなんだが、こんなの誰か買ってくれるのかしら」と思っていたらアシストオンさんの素晴らしいサイトのせいもあってつるつると売れている。どっかに誰か変なひとたちがいるのだ。変っていうけどさ、私から見たら、「なんでこういうものが無いの?今だったらこういうの合理的じゃん」って合理的の領域まであって当然と思うから作ってるんだけど。で、こんな私をどうやって伸ばして成長させて展開したらいいのやら。こんなこといつまでも長くは続かない、気もする。
私の脳の片方では「じゃあどのショーにぴったりくるようなものを作りたいのか」と自問している一方、もう片方の脳は「なーんも考えないで作りたいと思うものを作ってみてそれから考えればよいのだ」などど無鉄砲で無根拠で大人げない衝動を探そうとしている。
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