2010年3月8日月曜日

読了レビュー100308

知の構築とその呪縛


ふとABC六本木で平積みされていて購入、きっと有名な著者なんだと思うが。パラパラと見ると超難解そうで、読んでいても難解印象なんだが、引用直後の「著者の自分の言葉/例えで言い換え」が実に的確で、私は読みやすかった。言い切っちゃう潔さがキレてていい。 

常識を世界の"略画"とみるなら自然科学は世界の"密画"化の構築、だけれど"密画化"の過程で、主観的描写(色や印象など)を排除した客観的描写のみを抽出しようとしたことが、世界を生きて流れていない"死物"として扱う袋小路への道に迷い込んでしまった。 というのが主な内容。 

なんでもかんでも原子とかのツブツブまで微細化することだけが本質に近づくんか?そもそもガリレオさんが偉大すぎて以後のみんな一斉にそれに従った(反論もあったがガリレオさんにかなわず)んで近代科学って邁進したけど、ほんまにそれでええのん?だいたい客観的な観察といっても観察者の主観が入ってるでしょ。という論旨。

○p119:人間や事物を「数字で表す」ことが何か没個性的に感じられるのは、その数字が「つまらぬ」性質の表現であって、個性的な「つまる」性質の表現ではない、ということからだけである。人柄だとか、美しさ、感動、悲しさ、なるほどこれらを数量的に表現することは不可能に思える。だがほかにどんな表現があるのか。何もないではないか。 

○p221:感覚的性質が十人十色で状況次第であるから、だからそれは「物」自身の性質ではなくで主観的印象である、と考えるのもまた誤解である。・・・十人十色であるということそのことがその当の事物自身の性質であっても少しもおかしくないのである。

上記引用のあたりは「デザインの効果を数量的に表現しろ」と言われて窮するあたりの答えのヒントになりそう(ならないかも、なんせ哲学だし。この質問が出るのはだいたい経済効果な見地だから)。 
物理学と哲学って隣り合わせなんだな。物理の探求の前提条件の確認が哲学なのか。 

先日茂木健一郎のクオリアな本を読んで「うーん脳のどこに電気反応があっても、それが赤いバラと感じたり、ましてやきれいだと感じる仕組みには、このアプローチでは近づけないんじゃないか」と思って、少々がっかりしたのだが、この先生スタンス(略画世界観に重ね描きした細密化)で脳科学した方が知りたいことには近づけそうな気がした。 
ま、哲学なんで高度なヘリクツみたいなんですけどね。

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